January 28, 2009
努力すれば
ニューヨークでは地下鉄の
駅一つにつき必ずといって
いいほど斜向かいに二件の
デリがあった。この数は東京
首都圏のコンビニをしのぐの
ではないかと思われた。
デリでは日用品一式と軽食が手に入る。日本の作りおきのサンド
イッチは食べられたものではないが、その場でパンをあたためて
もらい卵とベーコンとレタスと・・・と注文してはさんでもらえばどの
デリのサンドでもとてもおいしかった。
ものの旨い不味いは品物名によってではなく、材料の質と新鮮さ
による。やはり国ごとに得意不得意があるのは当然で、日本なら
その場で注文して握ってもらうおにぎりなんかがあればたぶん
外国人にもうけるだろう。「玄米ライスにサーモンとカッテージチー
ズとスピナッチとうめぼし」みたいに。
問題はあれは素手で握らないとどうにも「おにぎり」らしさに欠ける
「米の塊」になってしまう。でもそうすると食中毒発生なんでしょう。
私はビニール手袋はめた手で握られたおにぎりなんてやなんだけ
どなあ・・・そこがクリアできれば・・・無理かなあ・・・。
さて、写真のデリはブラックハーレムで撮影したもの。
こういうのがほぼ交差点ごとにあると想像してくれればよいです。
24時間営業なので買い物にはまず困らない。
アルバイトくんがやるんじゃなくて、店主がどっしりと構えているので
地域のたまり場というか情報源というか、そういう存在でもあるんですね。
私はデリで買い物するのがどういうわけかすきでした。
中心街でも、郊外でも。どこか懐かしかったんです。
さてハーレムといえばこのニュースは心温まるものでした。
「努力すれば何にでもなれることがオバマ氏のおかげで分かった」と
いう13歳の少女の言葉。これぞオバマさんの存在意義をどんぴしゃで
言い表しているといってよいでしょう。
私には将来なりたかったものが三つありました。
ダンサーか作家か建築家。
そのうち一番最初にあきらめたのが建築家でした。
数学が大得意じゃないとだめだとどこかできいたからです。
高校生のときに我が家にヨーロッパからの留学生がホームステイに
きて、「将来何になりたいの?」ときかれて、当時はダンサーと作家は
到底なれる道筋がないと思っていたので「本当は建築がやりたいんだ
けど数学が苦手だからだめなんだ」といったら「そんな若いのにもう
できないって決め付けるなんておかしいよー」と笑われたことを覚えて
います。でも私は自分には数学ができないと当時完璧にわかって
いました。
できないなりに数学というものを思い返すと、数学はおそらく二段階に
わけられるように思います。
一つ目の段階は何と何をどうするとどうなるか、という「結果を出す」
段階。1+1=2というのがそれです。12÷3=4もそうですね。
二つ目の段階はあるものとあるものはイコールである。
これを形をどんどん変えていけ、という段階です。
方程式以降の数学はすべてこれに集約されるんじゃないかというふう
に感じています。
この面白さにはまった人は数学を「美しい」と呼ぶ。
宇宙の法則のようなものを解き明かす数式は必ず美しさを秘めて
いるものだ、という気がするのですね。
私の周囲には数学の得意な人がたくさんいました。
しかし、その美しさをすぱっと説明してくれる先生が残念ながらいなかっ
たのです。だから私は「だめなんだ」と迷いなくいいきったんです。
これは運です。誤解しないでいただきたいのは私は運を責めるつもりは
毛頭ないってことです。
数学では不運でもあったし努力もあっさり放棄しました。
しかし当時道筋さえないと思われていた残りの二つに関しては、
建築ができなかった悔しさも含めて今、ブルドーザーのように荒地を
開墾しているわけです。
「努力」などという泥臭い言葉が13歳の少女からかようにすっきりと
発せられたからには。大人は負けられないです。