September 07, 2019

全然違う話

帰りの電車ではニュースを読むのが恒例になっている。
楽しかった1日だからこそ、そうじゃない世の中に目がいってしまう。

いまはじまっている、ゆうあちゃん事件の公判。母が語り始めた。

自分はドメスティック・バイオレンスの被害者ではないと思っていた、グーで殴られるのが虐待だと思っていた、と。

頭を抱えたくなる。


私は以前の住居で、隣人の虐待を通報したことがある。壁越しに、母親が子どもを怒鳴りつける声がエスカレートしていったのだ。まさに逆上だった。

父親は不在で、週末だけ帰ってきた。その留守の間に、子供二人と密着した生活を送っていた母親が孤立して、どなりはじめるのだった。父親は知らないのである。子ども二人がどれほどのめにあっているかを。

この場合、どなる母親が悪いのだろうか?真面目すぎて、洗濯物を完璧に並べてほす母親であった。そういう几帳面さが、こどもを苦しめるのだった。

それこれも、孤独ゆえなのだと思われる。私つかれたの、一人になりたいの、家事育児から解放されて温泉に一泊二日いってきたいの、そういうことが言えない、許されないことが、逆上となってこどもを襲うのだ。

父親はいつも、ぽわーん、のほほーんと、週末帰ってきて、バトミントンなんかしている。その間、母親はエスケープすればいいものを、律儀に家にいるのである。母はいつも家で家族の帰りを待つものだ、の呪縛である。

ゆうあちゃんの母もまた、孤独だったのだ。それにつきる。たった一人、友人がいたならば!

日本は確実におかしくなってきている。子どもたちが、貧困に、いじめに、虐待に苦しんでいる。親が、社会が、こどもの命を守れていない。

こどもを守るには、親が外に開けていなくてはならない。家族のことは家で、はもう過去の話だ。家族のことを家で解決できる時代は終わった。介護も子育ても、けしてかかえこむことなかれ。

親は、苦しいときには苦しいと声をあげていい。親(特に母親)はこどものために自己を犠牲にするものだ、という暗黙の呪縛が、結局のところ子どもたちの命を奪っている。

母親よ、洗濯が苦しい、取り込みが苦しい、買い物が苦しい、料理が、子どもとの会話が、風呂が、片付けが、皿洗いが、送り迎えが、保育園や幼稚園や学校とのつきあいが、もう耐えられないと、思い切り叫んでかまわない!

こどもの命を失う前に、大きな声で叫んでいい!!逃げていい!!自分を許していい!!

あなた(私)はよくやった、もう十分だ、と魂に語りかけてほしい。あなた(私)が幸せでなくてどうしてこどもを幸せにできるだろう。
















salsaconsul at 01:51│Comments(0)■SALSA FRESCA泣き笑い 

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