October 15, 2018

みんなの出来事と私の出来事

生きていくうちに自らの属するフェーズがいつの間にか激変しているのは、どれくらいよくあることなのか、ないことなのか。
よくある、というのが多分妥当だ。それくらいいま属している世界ははかないものにすぎないんだろう。

私は多分せいぜい十年前、こどもなんかかわいくない、じゃまだとおもっていたか、下手すると実際そう口にしていた。

そして昨日二人の女性が一歳のお子さんを連れてレオンにみえたとき、どうにもこうにも子ども達をあいくるしいと感じていた。私はたとえ自分のでなくとも、幼い子どもを抱っこすると胸がきゅんと痛くなることを経験で理解できるように、ここ数年で劇的に変化していた。これは、人間に本能的にすりこまれた「自らより先行きある命を守ろうとする力」によるものだと直感的にわかる。こうして生き物は集団として生き延びてきたと思われる。

ちょうど私の子どもがそれくらいの年齢だったとき、はじめての札幌ツアーがあった。ポエたまツアーだね。このとき、私は実家に子どもを二泊三日預けた。お母さんという人種はこどもが泣くと胸が物理的に痛むようにできている。こうしてヒトは赤ん坊から離れられないようにプログラミングされているのだ。だから、こどもを預けるかーちゃんはひたすら、どうか泣いてくれるなと祈る。泣かれると胸がいた苦しいからだ。

私はまだ全然しゃべることがなく、季節や曜日の概念がない子どもにカレンダーを持っていった。そして「これからかーさんは仕事でこの日とこの日は帰ってこないが、この日に帰ってくるからね」と指差しながら説明した。こどもはふんふんというわけではないなりに一応カレンダーの赤、青、黒ときっかいな形の文様(大人は数字とよぶ)とやたら説得熱心なかーさんを見ていた。そして私が立ち上がると、プイッと横をむいて勝手に遊び始めた。そして私がいってきまーすと言っても一切こちらを振り向かなかったのである。

これには驚愕した。通常私だけが出かけるとなれば大騒ぎである。こどもは私の話を理解したと考えるよりほかになかった。かーさんは出かけるがそのうち帰るし、その間はもう一人のもっとシワのある人がご飯をくれるしオムツを替えてくれるからあまり問題はない、という理解が。しかし「そのうち帰る」という状況を理解し、「じゃあ行けば」という態度がとれるのは、赤ん坊にとって楽ではない行為であるはずだ。

私はこのときばかりは、こどもの驚異的な能力に恐れ入るしかなかった。理解、共感、諦め、妥協、切り替え。これらがしゃべれない年齢のこどもにできるということは。ほとんど圧倒されながら私は札幌に向かったのだった。

このときから、私はこどもを尊敬せざるを得なくなった。この件をもって、こどもは一生通用する貸しを私に作ってしまったわけなのだった。

帰りの特急列車を、こどもはばーちゃんとじーちゃんと三人で待っていた。雪こそないものの、景色からすれば北の国からそのまんまの、あの田舎の国鉄の駅舎でもって。線路をまたがる階段をえっちらおっちらと降りていく。彼らはちょいと気をきかせて、改札口を通ってホームのほうにでてきてくれていた。こども特権をふりかざしてそういうことを無理クリやらせてもらったわけだ。

三日ぶりに私を見つけたこどもは
「キャーーーーーッ」
と言った。三回ほど言っていた。
生まれてはじめて、こどもはなかなかに大きなことを達成したのだった。お帰りというよりも、わたし様はたいしたものであろうぞなもし、という満足の叫びであった。

私は本件をもって、こどもに圧倒される感覚を学び相応の謙虚を身につけることができたと思う。一人一人の人生にこのように見えない「たいしたもの」が散りばめられており、その記憶のなかにかけがえない絆が形成されていく。



salsaconsul at 10:26│Comments(0)■SALSA FRESCA泣き笑い 

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