September 01, 2017

夏の終わりのハーモニー:その2

先日豊洲ではじめてのレッスン、パフォーマンスを行い、その成功によってしばし喜びと放心状態に陥っておりました。しばしばインストラクターは緊張しないと思われているようでありますが、レッスン前のインストラクターはばりばりに緊張しております。皆さまが取引先にたいしてプレゼンをするのと同程度と考えてもらえればよいのではなかろうか。そこには会社の損益が、ボーナスが、かかっているとなれば当然のことでありましょうが、一番そこにかかっているのはなんといっても己のプライドでありましょう。人を喜ばせる、笑顔にすることが、もっとも手っ取り早くこのプライドを満たしてくれることはいうまでもなく、少なくとも私がサルサインストラクターをやっているのは、お笑い芸人が客席の爆笑の中毒になって二度とそれ以外の仕事ができないと感じるのと同じ理由であるように感じます。

そのような中、私が今もっとも深く湖の底にもぐって考えていることのひとつは、なんといってもパフォーマンスのことです。内容構成表現云々はいうまでもありませんが、そんなものは思考のうちのごくごく表面的なことというか、どうにでもなること、簡単なこと、楽しいだけのことにすぎません。私が深く深くもぐっては息継ぎのために浮上して、また深くもぐっていくのは、我々・・・仕事をし家庭を持ち、さまざまな活躍の場をすでに持っている我々が、さらにここへきて人前にたとうとする、何かを演じようとする、人に見てもらいたいと願う、この心理とは何かということなのです。

私が思うに、この問いにおそらく答えはありません。こたえを見つけたと思っても、その直後にそのこたえと思ったものが全き間違いであったと気づく、その繰り返しであろうと思うだけです。しかし、この「こたえはないとわかっていてもこたえを果てしなく追おうとする」という「態度」が、パフォーマンスに漂う匂いの質を決めるものであろうと私は確信しているのです。パフォーマンスなどというものは、本来選ばれしもの、おさなくしてそのような生活スタイルを選んだもの、選ばざるをえなかったものがやればよいのです。しかし我々はサルサを知ってしまった。そこで私は何かを作らずにはいられない。人間の形を使って音楽を見えるようにせずにはいられない。それは自分ひとりの力ではできない。悩む。そこへ、私と同じ理由か違う理由かはともかく、自らの体に鞭うって人前に恥をさらしてまでも何かをなしとげたいと思う人があらわれる。それが一人二人三人四人とあらわれる。そこで私は彼らの体を「借りる」。そしてそれが躍動するにはどうすればいいのか、どういう訓練が必要なのかを「吹き込む」。すると彼らは、それがどういう理由かはともかく、私を「信じる」。そして「演じる」。その目的が自己顕示欲と呼んでいいものなのかどうか、私にはわからない。私もふくめてそれはたしかにそうなのだろうが、いえるのは、どのメンバーも「そうでない楽しみ方もあるのではないか」という迷いを「周囲に感じさせる」年齢と人生経験をすでに有しているということです。私自身も、実はそうなのです。しかし、パフォーマンスの練習の時間に皆がみせる表情、いちずさ、会話や笑いのひとつひとつは、私にとってかけがえのないものであり、私にとってかけがえがないということは彼らにとってもおそらくそうなのだろうと、私は「信じる」しかないのです。これが信じられなくなったとき、そのチームは使命を終えたということになるのでしょう。



salsaconsul at 16:54│Comments(0)■SALSA FRESCA泣き笑い 

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