March 31, 2016

おおいなる理不尽

こんにちは!今日は「さびしさ」がテーマ。いえーい。

今日、一気に桜が咲き出しましたね。
私とこの団地はこの桜が自慢で、どこの中庭にも桜が植わっています。人々の心の支えです。この桜が毎年私のさびしさの原因になるって話をします。

桜の季節っていうとこちら(本土)の方はなんでかかように浮かれますかね。わーおこらないでーつめたくしないでーひねくれてるって思わないでーこの長い寒い枯れた冬のあと一気に街を彩るピンクのお告げのどこに文句があんねんていわないでー。私は桜にはぜんぜんもんくないです。いいもんだなーと思います。でも、

そうっと眺めてるのがいいんです

わかってもらえますか?買い物いくんでも駅まで歩くんでも、きれいな桜いっぱい咲いてますよ。それでもう十分なんです。みんなでいっせーのーせ・・・ってとこがどーーーしてもだめなんですよ。思えばこの「せーのーせっ」コンプレックスのために多くの機会を逸してきた気がしますね。反省はしませんが、さびしいです。私にとって春はそういう季節です、毎年。それとハロウィンです。

昨日のことですが、私はネットで情報集めをしている最中に切ないものを目にしてしまいました。「現代日本の子どもの六人に一人が貧困の状況にある」というものでした。その前には現在大学生の半分以上が奨学金をえているというのも知りました。私は内職の形で高校生たちの生の声にかなり触れていますので、彼らにとっての進学や就職の意味がかつてより大きく変化しているのを目の当たりにはしています。

彼らは驚くほど頻繁に「自分は親に迷惑をかけている」と書いてきます。その理由は「お金がかかるから」と。そして「だから早く就職して親に恩返しをしたい」というのです。かつての子どもはそのようなことはいわなかったと私は思います。進学することが親への恩返しでした。現在、学校の給食が一日において唯一のまともな食事であるという子どもが多くいるという現実があります。窮状に気づいた先生たちがカップめんやレトルト食品をストックしてひそかに渡している。学校が子どもたちの学びと成長の場どころか、命綱になっているという現実。私たちにまずできることは、もし「!」という瞬間があったら何か、なんでもいいから何かをしてあげることです。

子どもの命がすぐそばで危険にさらされているかもしれない。私たちは今、そういう目で周囲を見てあげる必要があるんだろうと思います。

私にとっても貧困はけして遠い話ではなく、ダンスをはじめた当初は月八万円で生活していた時期もありました。ほんとの話です。米が買えなくて、冗談抜きで盗もうかとすら思ったこともありました。シャワーを浴びたくて公共の施設に忍び込んだことすらあったのです。ただ、サルサのことを見たい知りたいという気持ちが強烈で、そのような好奇心が貧乏に打ち勝つうえで強力な武器になりました。知りたいことにしゃにむに向かう姿勢は多くの問題を後回しにして前へすすむ力になります。

今、私は縁あってサンテリアのことを調べに調べていますが、このしんどい作業を通じてはじめてキューバというか、ラテンアメリカのことを本当に理解する糸口をつかんだ手ごたえがあります。

最近私は日系ペルー人で最近日本国籍を取得した女性とそのお子さんと一緒にご飯を食べました。高校に合格したお祝いで、とても喜ばしい席でした。そのときその女性が、食前の祈りを捧げてアーメンと結ぶところを目の当たりにしました。キリスト教徒でも都会暮らしだとこのような祈りを捧げたりは昨今はあまりしないと思います。ですからそのとき、ああ自分はよきものを見せて聞かせていただいた、とつくづく思いました。生アーメン、ですね。

私はサンテリアのことを調べていたので、ラテンアメリカの国々の人々の心情に与えるキリスト教、特にカトリックの影響の強さにようやく気づき始めていたところでした。彼女(アーメンを唱えたお母さん)によると、彼女たちも聖人信仰というのをとてもポピュラーに行っていて、ペルーでもとても普通のことといいます。

私たちはクラブでたくさんのペルー人と会いますし、イベントをしているペルー人もたくさんいますけれど、彼らの祈りについて考えたことはないと思います。われわれもわざわざなんで初日の出を拝むのか、なんで人が亡くなると合掌するのか、考えたり説明したりしません。でも、それらの無意識の行為をわれわれから引っこ抜いたら、われわれは誰でもなくなってしまうのです。私はそのことに今、激しく気づきつつあります。

われわれがどこからきて、何者であるかという部分、われわれが災害や事故や病気、そしてそれこそ貧困のような大いなる理不尽にであったときだれに、どこに助けを求めるのか・・・その、人間の人間たるところに強く結びついているのが宗教なのです。当たり前すぎて、力をいれて書くのも恥ずかしいことですが、私はサルサ教にはまりすぎたがゆえにその手前にあるものをこれまで見過ごしてきすぎたかもしれません。

私は今、キューバ人およびラテン人がなんであるかについて、これまでとまったく違う角度から急激にアプローチをかけている真っ只中にあります。今日はこれで、時間切れです。





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