May 16, 2012

ギャップとタフネスについて

最近役者の自伝・評伝を読むことが多くなったことは以前書いたとおりで、その理由は彼・彼女たちが演者であること・ヒーローとかスターであることと現実・・・つまり請求書や洗濯物や誤解やいらだちといった日々の雑事であるがそれなくして人生はありえない類のもの・・・との折り合いをどのようにつけているのかをぜひとも知りたいと思ったからだ。

サルサのインストラクターであることは他人になりきるほど大げさな演者である必要はないけれど、自分をある一定のイメージで人前に差し出す必要性が高いという意味ではおおいに気苦労の多い役目であることは間違いない。 ある時点で気付いたこととして、サルサはペアダンスであるがゆえに「男性に夢を、女性に希望を」・・・つまり「男女別に好感度が試される」ことがインストラクターである以上逃れられない、というものがあった。この気付きはワタシにとって非常に、そう、「非常に」重いものではあったけれど、言動に少々の繊細さが生じたという意味でよい気付きでもあった。

ワタシは生来の性格としても家庭の方針としても、いわゆる「『あの』女性らしさというもの」を必要としなかった。人と人とがうまくやっていくためには、ときに三歩出ることが必要であり、ときに足並みをそろえることが必要であり、場合によっては三歩くらい下がったほうがいいこともあるという、ただそれだけのことだと思うのだ。サルサでも一歩下がったり一歩出たりする、それと同じで。

ところでサルサ界で驚くほど「三歩下がって」を実践しているのがプエルトリコの最強ペアの一つ、ティト&タマラのタマラさんで、彼女はレッスン中ほとんどまったく声を発することなくティトさんのサポートに徹する。受講者は尊敬するタマラさんの声をきくために、レッスン後になんとかして彼女に質問をしようと詰め掛けるのだ。この人ほど寡黙で、いざステージにあがると一転して雄弁に踊る人も珍しいだろう。

さて、役者たちは「ヒーロー・スター・アイドル」と「日常」のギャップがあまりにも激しいために、その折り合いのうまくつけられる人は長く活躍し、つけられない人は短命に(役者としても生命という点でも)終わる傾向が強いことがわかるようになってきた。多くの役者が他人になりきることから生じる現実とのギャップ、不規則な生活、派手なパーティーや過度の緊張といった事柄と折り合いをつけるために、合法・非合法含めてなんらかの薬の手助けを必要としている。そこにアルコールが加わったときに悲劇が生じるように見える。アルコールが日常的に簡単に手に入るものでかつ食生活にごく自然に組み込まれているために、薬と併用しているときの合併作用を本人は気付きにくい。そこが非常に脆く危険な点なのだと思われる。

マイケル・J・フォックスは著書『ラッキー・マン』の中で「次の仕事がくるかどうか」の不安感・恐怖感がどのようなものであるかを詳細に描写している。人気の火付け役になったテレビシリーズ「ファミリー・タイズ」と三作が作られた「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を同時に抱えていたことは一種の保険(まだ仕事はある、という)としての作用があり、一つの仕事を終えるときに次の契約がすんでいるかどうかが心の安定を大きく作用したことを極めて具体的かつユーモラスに描写している。これまでのところ、役者独特の将来に対する不安感をこれほど克明に再現することに成功している本にワタシはまだ出会っていない。パーキンソン病が発祥してから症状そのものとの闘いに加えて、より困難な精神的な闘い(仕事がとれなくなるという恐怖、家族に見捨てられるのではないかという孤独感)を克服したあとで、ずっと昔の、現状とは全く異なる過去の心理をこうも鮮明に描くことができるものだろうか。この人はアルコール依存とパーキンソン病の二つを並外れた努力の末に克服した人でありながら、その道程を振り返る彼の視点はユーモアと感謝に満ちている。いわゆるキーマンにあたる人々に出会いその助けをかりたこともまた、この人の強さであった。


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