May 09, 2012

選択の権利

今この時期に日々刻々おこっていることの意味がわかるときがいつかくるんだろうな、という感覚で毎日をおくっています。レッスンのときに生徒さんと話すことがら、パフォーマンス練習の間におこる緊張と爆笑の連続、ミーティングのときのみんなのちょっとだけ不安を押し隠した顔、ワタシが大笑いしながらも「この週末はいったいどうなっちまうんだ」という気が気でない思い。8人がパフォーマンスのリハーサルに入るとき、ワタシといえば神田神社で例の「ほうぃ〜〜〜」という笙の音にのって赤絨毯を上をしゃなりしゃなり歩いているはずだが、そんな気分で結婚の儀とやらを執り行うことになるなんて一体どうして想像できただろう。昨日のミーティングではユーストリームを使えないかという話がでてきた。「センセイの様子をこっちに送ってほしいんですけど」「送ってほしいのはこっちだよ!!!」互いに相手のほうが心配なのである。しかしこの場合、ワタシはとにもかくにも顔も背中にも剃りをいれたことだし必要な着付けの材料も無事梱包して宅配でおくりおわっているし、あとは指定された時間に指定された場所にいれば、腰かけたときにそのまま後ろにひっくりかえるような粗相でもない限りおそらく目もあてられないことにはならないわけだけど、パフォーマンスメンバーのほう(特に化粧が大変な女子陣だ)は早起きしてシャワーを浴びて化粧をたたきこみ髪をぴっかぴかに結い上げ、遅刻なきよう集合し、一致団結してリハーサルおよび最後の練習および本番を迎えハレバレと引っ込んでもらわらないといけない。これは薄紫の着物をきた介添えがつくこちらに比べたらよほどしんどいといわざるをえない。うーむ。ここは一つ、がんばってもらわなければいけない。

ところで通常レッスンに関してなんだけれども、最近日曜日に面白いことがおこっている。メキシコ系アメリカ人がレッスンに参加してくれているのだ。そこでレッスンは半分以上ワタシのいてまえ英語で進められているわけなんだけれども、これが率直にいって非常に面白いのだ。指導にあたってコツなりポイントなり修正点がでてきたときに「あーうー、それは指の形がどうで」とか「えーあー、それは二人の距離とテンションがどうで」とかいう説明をするわけなんだけれども、こないだはワタシがどうしても「肘」を「ニー」といい間違えてしまい、彼がそのたびに小声で「エルボー」といいかえてくれるのだ。もちろん周りのみんなにはそれはばっちり聞こえているんだけどね。それが二回目か三回目になるとワタシはおかしくてたまらなくなってきて、同時にああ、これこれ、このコミュニケーションが旅の楽しさだよな、という記憶が鮮明によみがえってきてすごく幸福な気持ちになる。英語で説明してるからといって日本人にもその内容はやすやすとわかる。実際に肉体を扱っている場合には言語の果たす役割はすごく小さくなるからだ。この交流をワタシはすごく楽しんでいて、またほかのメンバーも彼のことをすごくソフトランディングにうけいれた。海外にでたときに、公園で通りすがる人とか、カフェでパソコンをうってるときなんかに「ハーイ」とか「そこ電波はいってるの?」「いやだめ。原稿うってるだけだよ」「OK」みたいなやりとりをする、あの「他人なんだけどたまたま行きあったから会話を交わす」ただそれだけのことがいかに心を健全で丈夫にするかということを、ここに日本で日常的に確認できるのは本当に嬉しいことなのだ。たまたまだけどこの教室の特に女の子には英語の得意な人が多いので「ようこちゃんなんだっけ、時代遅れは」「out of date?」「そうだこのやり方はout of dateだとワタシは思うんだよ」「OK」的な流れで会話が進んでいく。われながらおいしいポジションにいると思う。感謝である。

クラブのほうでも面白い出来事は多い。これもやはり、人と人との会話から生まれるものである。先日レオンのパフォーマンスを見てくれたペルー人が、非常によかったと声をかけてくれた。それで一杯ご馳走になりながら様々な話をしたわけだ。そこで「この間は一緒に踊った女の子があなたと全く同じ動きをしたのが非常に素晴らしかったわけだけど、いつもそのようにいくわけではないだろう、そういう場合あなたはどのように対処するのか」という質問をされた。非常に厳しい(笑)ところをついた質問である。そこで「実は自分自身が先日4/28のパフォーマンスで足を滑らせた。人のミスは責められない。」と万感の想いで答えたのだった。チャレンジすればミスはおこる。ミスのリスクをとってチャレンジするか、ミスをおこさない方向でまとめていくかの間を縫うように振り付けは決まっていく。私は先日、足を滑らせたことに関してその理由を自分が十分に認識しているので、いまだにその傷は全然癒えていないし、むしろ癒えていない状態で6/2を迎えることが自分にとって実に大切なことなんだと思っているのである。そのペルー人は「メッシがいるだろう、サッカーの」と言った。「メッシ。ああ、あのアルゼンチンの」とワタシがこたえると「そうだ。そのメッシがこのあいだチャンピオンズリーグでPKを外した。バルセロナの勝利がかかっていたのに」と教えてくれた。ワタシは今だにテレビを持っていないが、もともとサッカーの祝祭的要素と民族と肉体と知能の激突には常々興奮を感じてきた。また、ヨーロッパチャンピオンズリーグというのが事実上、ワールドカップよりも本当の「現在もっとも強いチーム」を決める重要な大会であるということもどういうわけか知っている。メッシのバランス感覚をとらえた一枚の写真をずっと昔このブログにアップしたことまであった。今、南米の子供たちは「MESSI」とかかれた帽子をお守りのようにかぶって未来の輝かしい自分を夢見ている。そのメッシがPKを、外してはならないところで外したという。私は何か非常に深い想いにとらわれた。そしてすぐに思い出した。「昔イタリアのスーパースターが同じことをしたはずだ。ブディストの。バッジオ?」「そうだ、ロベルト・バッジオ」「あれはワールドカップだったね?」そうだ、とペルー人は大きく頷いた。彼もまた、サッカーに人生の断片をみる多くのオトコたちの一人なのだった。バッジオの蹴ったボールがありえない高さに跳ね上がってスタンドに吸い込まれていったとき、会場のイタリア人たちがのみこんだ絶望の空気量があまりに大きかったせいでテレビの前のこちらまで吸引されそうになったことを覚えている。彼は今も仏教徒であるだろうか。そうだろう。あのときのあの「事件」に何か意味があったかときかれたら、おそらく「ない」と答えるのだろう。彼らの背負う責任と多額の契約金の前に自分にはなんら比較の意味もないと思われるが、個人のレベルでも常に「やってはならないミス」に関する強い信念とスタンスは必要であり、それは許す許さないではなく、それを生かすか、それがために絶望するかを選択する権利は自分にある、それも自分の行動にあるということが、今になってようやくわかるような気がしている。




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