August 13, 2007

心うたれたこと

私はみなのことをほとんど知らない。

みなも私のことをほとんど知らない。

人は人のことをほとんど知らない。

今日、また私は自分の知らないことにいきあたった。


 


国際結婚をして海外に暮らしている私の先輩が難病の

お子さんを授かっていたことを今日初めて知った。

きいただけで脳天を直撃されるような重病だった。

命をどのようにとらえるかというほとんど究極の問題が

逃げも隠れもできない現実として後輩たちの間にそびえたって

いた。

 

先輩は輝かしい存在だった。

海外生活に照準をあわせ、趣味も仕事も恋さえもすべてが

そこに帰結するように生きているような人だった。

そうまでして一直線になれる人を素直にうらやましい

と思ったものだ。そして知力を尽くして夢をかなえていく

人の典型として私の中に薄れることなく存在していた。

その先にこんな試練が待っていたとは誰が想像できただろう。

私たちはまずこの報せそのものに呆然として、次にその

先輩がこの報せをうけてから今までにむきあった現実の

重さを思ってなお一層言葉を失ったのだった。


幸福の形は大体みな似ている、とどこかできいたことがある

けれど、自分で新たな幸福をつくらなくてはいけなくなった

人とはどのような道を歩むのだろう。

 

今この瞬間の先輩を思うと、時のむごさをどこかに訴えたい

気持ちになる。

あらためて思う。

自分は毎日を本当に生きているか、と。


自分の望むように生きることが最高の幸せだと信じてきたけれど、

その向こうにも神様はまた険しい山をおつくりになるようだ。

だとしたら私たちは何を信じていきたらいいんだろうか。


今日私は何年も前から行きたかった公園にいった。

たかが電車で30分の公園にいくのにさえ何年もかかってしまう。

そこで見た緑は想像以上でずいぶん心が安らいだ。

日陰に入れば思いのほか涼風がふいてきて。

そのとき、私は地球の裏側で試練に耐えている先輩のことを

少しも知らずにいた。

そして公園とそこに集う大勢の日本人と海外からの人々に

思いをはせていた。

 

もし自分が先輩の立場にたったとしたら、どんななぐさめも

ナイフできりつけられているようにしか感じられないかも

しれない。

森や海の中にいたい気持ちだろうに、その子はいっときも目を

はなせない状況でそれもいつまで続くかわからない。

先輩は私には見えないものを今たくさん見ているんだろうな

と思う。

そこに行けば、今自分が躓いているすべてのことが笑っちゃう

くらい簡単なことに思えるのかもしれない。

壁とか天井とか勝手に作らないでチャレンジしようと思う。

先輩を越えたいという気持ちはなおさら強くなった。

 

 




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この記事へのコメント

2. Posted by salsaconsulRIO   August 13, 2007 12:48
幸福とは歩くこと。立ち上がるときは手をかしてはもらえない。ナオトさんありがとうございます。圧倒的事実の前に「立つ・歩く・踊る」というシンプルな言葉が新たな意味をもつように思えてきました。


1. Posted by ナオト   August 13, 2007 01:34
人は最愛の人がどんなに苦しんでいても、救うことはできません。自分がどんなに苦しんでいても最愛の人に救ってもらえません。各々立ち上がるのを待つしかありません。幸福は、それを目指して歩いている時が幸福であって、着いた瞬間に消えてしまいます。だからまた目標を見つけて歩き出します。歩けなくなったら、幸せはありえない。先輩は何があっても歩きだすでしょう。その子が再び立ち上がることを祈ります。

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